音楽の夕べと文化協会

音楽の夕べといえば、半世紀前に開催された伝統ある音楽祭です。まだ小出郷文化会館がない頃は小出郷福祉センター小ホールが発表会の拠点施設でした。

その音楽の夕べの生い立ちを私がわかる範囲で書きとめておきたいと思います。「音楽の夕べ」は今は亡きお二人なくして語れません。

お一人は当時、銀山商事の社長で小出郷文化協会の初代会長さん。もうひと方は小出小学校の音楽教師で鼓笛隊の熱血指導者の住安昭十郎さんです。
遡ること70数年前、昭和20年代の小出郷は芸術らしき姿は殆どなく、民謡保存会や絵画サークル、短歌会などのごく僅かで、芸術果つる地域ともいわれていました。

名士櫻井文壹さん(初代小出郷文化協会会長)曰く、「文化はハードからソフトが生まれる」。と口癖にしていました。

小出郷福祉センター建設から音楽の夕べや女性合唱団が生まれ、各地域で文化団体の芽吹きが始まります。

また、小出郷文化会館建設から小出郷文化協会や広域文化団体(魚沼太鼓・魚沼混成合唱団・魚沼一座等)が誕生しています。まさにハードからソフトが生まれたのです。
旧新潟県庁

お一人の櫻井文壹さんは、大学卒業後、新潟県庁の社会教育課に勤務します。公民館施設の普及担当で各市町村に施設建設のお願い行脚しています。

これは米国の駐留軍からの指導命令であり、文科省を通して建設を促し、昭和40年半ばから公民館施設が急増しています。

その恩恵があって、昭和47年に湯之谷井ノ口新田に待望の文化の拠点、小出郷福祉センターがオープンします。櫻井さんはこの福祉センター建設に合わせてピアノ購入を企てます。
策士の櫻井さんは、当時の小出ライオンズクラブに所属しており、クラブからピアノを寄贈するよう尽力します。音楽会を開催するにはピアノがいることを前提に企んでいたのです。

大学時代は演劇部で舞台装置を担当していて、第一回関東大学演劇コンクールでは設計から製作を担当、早稲田大学に次いで第二位、個人賞はなんと脚本、演出、舞台装置賞に輝き、仕掛け人として名を馳せています。
日比谷公会堂「立春大吉」櫻井さんの舞台美術

櫻井さんは東京都や新潟市で合唱団に所属していて小出町に戻ってからは、地元の音楽会を企画します。当時音楽教師で誠実な住安昭十郎先生の協力を得て、櫻井さんは準備を進めます。

「地域の音楽愛好者の輪を拡げて音楽の悦びを共有したい」をコンセプトとに「音楽の夕べ」を数人の発起人で立ち上げました。

昭和47年秋、悲願の第1回の音楽の夕べが幕を開けます。実はコーラスグループが二、三団体しかなかったため、軽音楽や琴演奏まで入れ、セミプロの演奏者も加えて座を持たせたようです。
そのような中、住安先生は必死になって小出、広神、湯之谷、守門などのPTAの女声合唱団を発足.育成.発展させて、5.6年後には漸くコーラスでプログラムを組めるようになります。

地元トップ経営者と熱血音楽教師の努力と功績を忘れてはなりません、このお二人の熱意と行動力によって「音楽の夕べ」の礎が出来たのでした。

私ごとですが、昭和56年に結成したあんさ&おっさは創設者の櫻井さんと住安先生からお誘いがあり、この年の第8回「音楽の夕べ」でデビューしています。
当時、持ち歌はオリジナルの3曲しかなく、緊張しながら福祉センターのステージに上がった時のことを鮮明に覚えています。

曲は「砂塵(さじん)・運(さだめ)・絆きずな」で当日に急遽プログラムが変更され、トリを務めることになって大役を務めています。

翌年からはクラシックの部とポピュラーの部に分かれて2日間の開催になり、あんさ&おっさは第8回から13回までお世話になりました。
ポピュラーの部は14回からコスモス音楽祭(ライブピクニックin小出)に形を変えています。「音楽の夕べ」は魚沼音楽界の登竜門、ステージに立てたことに大変感謝しています。

始まりは支援金もなく、主催者がポケットマネーを出し合って始めた「音楽の夕べ」は数年後、小出町の公民館活動になり、小出郷文化協会設立(合併後は魚沼市文化協会)からはメイン事業に発展、協会再編後は魚沼市音楽協会が運営しています。
 平成11年8月7日、小出郷文化協会設立総会。

平成7年11月1日に小出郷文化会館館長に就任時のマニュフェストの中に広域団体(2町4村)の発足育成を掲げています。

就任初日に6町村の教育長さんに挨拶回りをしながらマニュフェストをお渡しして、広域の文化協会の設立のお話しをしています。
するとすでに平成7年の4月26日、広域圏文化協会設立第1回準備世話人会を開催しており、協会は教育委員会の文化担当者が進めるので館長は心配しないで欲しいとのことでした。

平成8年小出郷文化会館がオープンし、こけら落とし事業や文化庁の文化のまちづくり事業に没頭しています。そのような中、残念ながら文化協会設立の準備は頓挫していました。
平成9年は10月に広域文化団体再調査が始まったようでしたが設立準備会は開催されず、各教育委員会任せは断念します。

そこで、平成10年に小出郷広域事務組合の広域振興室が設立の事務局を務めます。小出郷文化会館が協力して準備を始め、10月13日に第1回準備会がスタートします。

5回の設立準備会を経て、ようやく平成11年8月7日に小出郷文化協会設立総会・祝賀会が開かれ、発足しています。
小出郷文化協会設立総会にあたり、あいさつ…設立の目的や経緯と夢を語っています。ようやく公約(マニュフェスト)を、果たせた瞬間でした。
この設立にあたり初代会長の選任を検討します。私は音楽の夕べを発足させ実行委員長を務める魚沼一、二の旦那様で文化人の櫻井文壹さんを推薦します。

準備会の承認を得て、私が直接交渉することになり、櫻井文壹さんに要請します。櫻井さんは快く了承してくださり、初代会長が誕生しました。

小出郷文化会が文化協会設立を先導したこともあり、合併するまでは文化会館の自主事業予算から(協会運営費・郡美術展覧会・音楽の夕べ・伝統芸能祭)音楽の夕べ事業費を予算化しています。
*ゆうきプラン実行委員会は小出郷文化会館の自主事業費です。

魚沼市誕生後は会館から独立して、直接魚沼市から文化協会へ事業費が計上され、現在に至っていると思います。
お二人の「音楽の夕べ」とのご縁から、私の文化人生にとって大きな道が拓きます。文化会館建設や文化協会設立と魚沼文化の進展に共に励むチャンスに恵まれます。

平成5年からは、住安先生と「住民による文化を育む会」のメンバーとなって、小出郷文化会館の建設活動に奮闘するなど、年は違えど戦友のようなお付き合いをさせていただきます。

特に会館のコンセプトに決まった「子どもたちの感性を磨く教育の場」は住安先生とタックを組んで提案して、熱い思いが形になりました。
私は子どもの頃、音楽との出会いがあり現在に至っおり、住安先生の子どもたちの感性を磨く考えに共感していたのです。
櫻井さんは文化協会を永きにわたり協会の屋台骨を背負もらい、魚沼市文化協会の礎を築いていただきました。

館長室に訪れては、魚沼の歴史や伝統文化などの蘊蓄をご教授くださいます。妙々たる為になるお話ばかりなので、こうした事を執筆して本にして欲しいと熱望すます。

早々に「コラム雑記帳1〜3」を上梓、私たちのお宝本になりました。
「音楽の夕べ」は新型コロナ禍の影響から2年続いて中止となり、来年の復活開催を祈るばかりです。

創設者の櫻井文壹さん(初代実行委員長)と住安昭十郎さん(初代副実行委員長)は、今もなお、天国から更なる発展を遂げる「音楽の夕べ」を見守っていることでしょう。ありがとうございました。合掌。

つづく

付録

櫻井文壹さんの社葬「偲ぶ会」に参列しました。参列者は約500人…ご依頼があり弔辞を述べさせていただきました。
【弔辞文】
 櫻井文壹さん、私は突然の訃報に接しまして驚きと悲しみでいっぱいであります。

 ご逝去される10日ほどまえ、文壹さんの娘さんにご容態をうかがったところ、「父は少し気が弱くなっているようですが、生前葬を計画してるようです。」とのことでした。

大学時代から、舞台の仕掛け人をしてらっしゃた文壹さんらしい発想だなと思っていた矢先の訃報でした。とても残念でなりません。
今から約20年前の平成7年、私が小出郷文化会館の館長に就任して、今でいうマニュフェスト、つまり会館はへの想いを約20ページに纏めました。その中ひとつが文化協会の設立でした。

それと申しますのも、当時の小出町長、登阪健吉さんより、「小出郷文化会館は、この地域にようやくできた文化芸術の拠点である。多くの住民から利用してもらって稼働率を上げてほしい」との命を受けたからです。

魚沼地域にある、400近い文化団体を束ねる文化協会を発足させて、魚沼地域の文化振興や伝統芸能の継承に役立てることが、利用者増にもつながると考えたのでした。
そして、文化協会の設立を実現できるのは、業界人、政界人、文化人として、魚沼の第一人者である櫻井文壹さんしかいないとお願いしたところ、快くお引き受けくださいました。

それから約15年間にわたり、魚沼市の文化芸術の発展のためご尽力いただきました。
特に文化協会の10周年事業では、文壹さんによる陣頭指揮のもと、協会の団結と融和を図り魚沼文化の大輪の花を咲かせました。
現在、文化協会は約130団体、2,000人もの大きな組織として幅広く活動しております。ひとえに、櫻井文壹さんのご見識とお人柄のおかげであります。

 文化協会会長のご在任中は、打ち合わせでよく会館においでになり、そのたびに館長室にお立ち寄りくださいました。

文字通り目から鱗が落ちるようなお話しばかりで、大学時代の舞台製作のお話し、県職員時代に公民館建設の準備に明け暮れたお話し、ご商売のこと、神社本庁などなど…
私が独り占めさせていただくのはもったいないと思い、ぜひ記録として残し、多くの方に伝え差し上げてくださいとお願いいたしました。

その成果あって、コラムにまとめた冊子『雑記帳』は、折にふれ読み返し、生き方の指針にさせていただいております。
深い教養と多くの活躍の場をもち、まるで雲の上の人のようだった櫻井文壹さんですが、気さくに地上に降りてくださり、いつもにこやかに、優しく、私たちに寄り添ってご指導してくださいました。
今後も天国から、魚沼の文化芸術活動をお見守りください。心からご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。合掌。
魚沼市小出郷文化会館
前館長 桜井俊幸
………………………………………………………
2016年1月31日に魚沼市小出郷文化会館で開かれた「住安昭十郎先生メモリアルコンサート・教え子たちの追悼演奏会」が開かれています。
住安昭十郎さんは長く小学校の教員を務め、小出小学校ではトランペット鼓笛隊の指導育成に尽力されています。

また、「音楽の夕べ」の企画運営にも力を注ぐなど地域の文化振興に貢献しておりましたが、平成27年5月に亡くなった住安昭十郎先生…感謝と寂しさが交錯します。
 追悼コンサートは住安さんの教え子ら有志による実行委員会が開いたもので、実行委員のひとりである佐藤孝子さんとやまびこコーラス、魚沼市音楽協会、魚沼の合唱団…

…柏崎フィルハーモニー管弦楽団団長の渡邊隆樹さんのヴァイオリン演奏、住安さんの教え子で藤原歌劇団正団員の高波礼子さんの独唱、日本フィルハーモニー交響楽団副主席奏者の星野究さんのトランペット演奏が披露されました。

このコンサートはDVDになり、この全出演者の演奏に加え、特典映像として住安さんの教員在職中の写真をふんだんに使ったコンサート冒頭に上映されたオープニング映像も収録されています。
 追悼コンサートは住安さんの教え子ら有志による実行委員会が開いたもので、実行委員のひとりである佐藤孝子さんとやまびこコーラス、魚沼市音楽協会、魚沼の合唱団…

…柏崎フィルハーモニー管弦楽団団長の渡邊隆樹さんのヴァイオリン演奏、住安さんの教え子で藤原歌劇団正団員の高波礼子さんの独唱、日本フィルハーモニー交響楽団副主席奏者の星野究さんのトランペット演奏が披露されました。

このコンサートはDVDになり、この全出演者の演奏に加え、特典映像として住安さんの教員在職中の写真をふんだんに使ったコンサート冒頭に上映されたオープニング映像も収録されています。

コーポA&O (桜井俊幸.A&O企画)

【桜井俊幸】 魚沼市生まれ。魚沼市小出郷文化会館を18年は5ヵ月務め名誉館長。後に(公社)全国公立文化施設協会(参与)と文化芸術による復興推進コンソーシアム(東京事務所長)。全国国民文化祭総合コーデネイターなどを歴任。 【コーポA&O】 魚沼市内に5棟や駐車場を経営している。 【あんさ&おっさ】 昭和56年、桜井俊幸、治兄弟で結成したオリジナルフォークデュオです。今年8月44年目を迎える。

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